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shinoのときどき日記


2010年09月01日(Wed)

RubyKaigiでみたこと。

RubyKaigiというRubyに関する集いがあって、昨年、今年と行ってみた。

ここ数年、いろんなところで、ウェブを活用したソーシャルな何かというのを考えることが流行っている。ソーシャルとか書くと新しく聞こえるけれど、人間が集まるというのは、人間の営みとしてすんごく自然なことだから、それがウェブ上に展開するのも自然なこと。そして、Rubyはアーキテクチャそのものだし、RubyKaigiの強みはソーシャルなアーキテクチャを作ることそのものだという認識でいる。その表出がRubyKaigiでRubyKaigiはコンテンツと同時にものすごくアーキテクチャなのです。

うーん。なんか書き出しが難しいな。まぁ、簡単に言うと、RubyKaigiというのは、時代の先っちょの生態系なのです。

今回のRubyKaigiでわたしが見たのは、RubyKaigiの「分散化」の準備だった。いやはや。大変なものを見てしまったよ。こんなの、滅多に見られるものじゃない。

分散化とゆーのは、大きなものがぱんっとたくさんに分割されることでも、散ることでもない。単純に上位層から下位層に意志決定権がゆだねられるということでもない。じゃあ、どういうことなのか、というのは、これからのRubyやRubyKaigiを見ていけば、わかる(はず)。

もう少し。

ずいぶん前にrblgしたものが浮いてきてた。問題点は自ら紙に手で書く -頭の中で考えていることは不明確です-(注:自分が書いたものではない)。

上の文章はそういう意味で、抽象的すぎる。抽象的に書けばかっこいいってもんじゃないだろう!

わたしがRubyKaigiを評価するのは、プログラミングである程度共通化された認識を、逆に、世界に実装・実行しちゃおうという心意気だ。

分散化というのは、『フューチャー・オブ・ワーク』の定義だと、「問題にかかわる者を意思決定に参加させること」*1で、また、組織の発達段階について次のように書かれている*2

  • 「第一段階では、人々は孤立した小集団で活動する。」
  • 「第二段階では、より大きな集団が形成され、意思決定が集中化される。」
  • 「第三段階では、大きな集団は残るが、意思決定は分散化されるのである。」

Ruby自体は、第三段階にあると見えるのだけれど、RubyKaigi自体は今第二段階で、だから余計にジレンマが大きかったように見える。(昨年、今年を見た感想だけれど)。なんせ、プログラマな人たちの集まりだからなぁ…。実装しないと苦しくてしょうがない、気持ち悪くてしょうがない、というのは、本能なんだろうなぁ…。

で、具体的に見えている分散化の主な方向の鍵は"地域"なんだろうなぁ。いや、もっとあるかもしれないけれど。ただ、ウェブ上、コンピュータ上にあるRubyと違って、RubyKaigiは実際に人の集まる物理的な「場」が鍵なので、地域という単位で分散化するのは、要だろう。

(あとで書こうと思ったことはコメントアウトした)

*1 p.24 トーマス・W・マロン 『フューチャー・オブ・ワーク』

*2 p.62 トーマス・W・マロン 『フューチャー・オブ・ワーク』


2010年09月03日(Fri)

まぁ、怠惰に行きましょう。

某会議が次回で終わり宣言を出したのを聞いて、んじゃあ、わたしがやってるアッチはどうすっかなーということは、まったく考えず、その某会議でとあるWikiのディケイド話を講演で聞いて、あらかじめ出ていた答えを思い出したりしたのであった。

「怠惰に行け」。

そーなんだよなー。その講演をしていた人に限らず、わたしが見てきたWikiの尊敬する開発者たちって、基本、「怠惰」。これは悪い意味ではなく。

あと、今は見えなくなっているけれど、「そこに在るということ自体が安心なので、在ってください」(要旨)というようなことを言われたりしてて、特に急いてざっくり消したり、終わらせる理由はないので、まぁ、アッチは、現状キープかなぁ。

追記。

まったく揺れなかったというと、そんなことはない。ここのところ、じつは進退問題で個人的にすごい悩んでた。ただ、わたしのWikiをめぐる冒険は、まだ終わってない。ただ、それだけ。だから、わたしは、続けます。(表だったイベントがないとしてもね)。

Tags: 雑文

2010年09月04日(Sat)

『フューチャー・オブ・ワーク』を読んだ。

フューチャー・オブ・ワーク (Harvard business school press)
トマス・W. マローン/高橋 則明
武田ランダムハウスジャパン
¥ 1,995

2003年(邦訳)に出た、MITのコーディネーション・サイエンス・センター所長、トマス・W・マロン氏の著書。Amazonの書籍紹介はかなり出鱈目だと思った。むしろ、レビューを読んだ方がいい。

この本は、オープンソースとWikipediaの成功に学ぶ組織論的なもの。従来の「階層性」「集中型」の組織と、「分散性」「ゆるやかな階層」「調整」の組織の違いについておおよその定義やモデル化をしている。日記には書いてないけど、以前読んだ『オープンソースの成功』もほぼ同じ内容(オープンソース、Wikipedia)について見方や検討の深さを変えている本だと思った。『フューチャー・オブ・ワーク』がビジネス・企業よりな見方なら、『オープンソースの成功』はコミュニティよりな見方という違い。さらにこの二冊の前には『伽藍とバザール』が系統としてあると思う。そして、これらの議論の「今」として、昨年から話題になったティム・オライリーのガバメント2.0が位置すると思う。

オープンソースの成功―政治学者が分析するコミュニティの可能性
スティーブン ウェバー/Steven Weber/山形 浩生/守岡 桜
毎日コミュニケーションズ
¥ 2,940


2010年09月05日(Sun)

礼拝。

ものすごく久しぶりに礼拝へ行ってきた(夜の部)。

キリストと一対一で出会えることを、祈る。

Tags: 近況

テスト "てすてす"

マイクチェック、わんつー。

Tags: tDiary

2010年09月06日(Mon)

くらい天からひとかけの雪

ふと、暑さの中で、ひんやりと冷たいものを思い出した。

『永訣の朝』だ。それは、『春と修羅』と名付けられた宮沢賢治の詩集のなかに入っているので有名ですね。

『春と修羅』は、副タイトルに「心象スケッチ」とあり、 現実の岩手の風景と、それに重ねあわせた賢治の心の風景が、言葉でスケッチされたもの。

賢治の心の風景は、須弥山という仏教の神話の構造を持っている。 簡単に説明すると、須弥山には帝釈天などの聖なる神々が住み、 須弥山の周りには海が広がり、その海の底には阿修羅が住んでいる。

阿修羅はもともと須弥山に居た神で、 神話によれば、 帝釈天の妻をかどわかそうとしたか、 帝釈天の大切にしていたお酒を盗んだかして、 帝釈天の怒りをかって須弥山のまわりに広がる海の底に追放された。 阿修羅は、満月の晩になると、須弥山に戻ろうと、海底から浮上を試みる、 そんな存在らしい。

賢治は岩手山を須弥山にみたて、 そのふもとに広がる農村部を海にみたて、 そこに暮らす自分を阿修羅転じて、修羅とみたてた。

そして、阿修羅が須弥山という天上への浮上を試みたように 修羅である賢治も、浮上を試みる。

わたしは宮沢賢治の作品は大好きですが、 でも、救いがないなか、もがき続ける苦しさを感じます。 宮沢賢治についていこうと思っても、 そこに、わたしの救いはないと感じてしまいます。

ただ、『永訣の朝』では、もう命の先がない病に伏して高熱にある妹トシのため、 修羅である賢治は、岩手の野原である海底にびゅっと駆け出し、 ここでは(満月ではないですから)浮上は試みず、 自分を閉じ込めている暗い悩ましい空を見上げ、 その天からやってくる何かをとらえる。

賢治が何をとらえたのか、また、とらえられなかったのかは、わたしは知らない。 読むという体験を通して、修羅に転じた賢治のように、賢治に転じたわたしは、 ここで、聖書の言葉を、欠けた陶椀に掬い、飲むのです。

さくらインターネットスタンダートプラン継続

freedomcat.com/socoda.netを置いてるさくらインターネットのスタンダートプランを継続しました。


2010年09月07日(Tue)

ひろびろとした光りのなかへ。

アブラハムが、メソポタミア文明を出奔していくくだりは、ほんとうに清々しい。 ひろびろとした光りの中へ、ぽーんと飛び出していく。 そんな解放感を得るのだが、 それでも、たぶん、そのひろびろとした空間のその先に 本当に約束の地があるのか、煩悶しなかったということは、ないんじゃないかな。

煩悶することすらも含めて、 それでも、約束の地を信じて、飛び出していくのです。


2010年09月08日(Wed)

いっしょに作業をして何かを作る。


2010年09月09日(Thu)

小鳥用のキャリーケージを購入。

いま、十姉妹が一羽、居る。(飼い始めてから知ったのだけど、ともかく、十姉妹は人になつかない。文鳥とかインコだと手乗りとかするらしいのだけど。なので、日記の話としては…ほとんど何もならないくらいに単調な日々)。

十姉妹のケージは大きくて、持ち歩くのは無理。

しかし、人から十姉妹をもう一羽、分けてもらうことになっていて、7月からずっと運搬方法を考えていたのだけど、ホームセンターに行ってみたら、モルモットや小鳥など小動物のキャリーケージが1500円ほどで売っていたので、購入してきた。

Tags: 小鳥

台風一過

昨日は台風で横浜もものすごい風雨だった。

けれど、今日になったら、一昨日までの猛暑がなぎ倒され、空気がおだやかになっていて、助かった。

暑いと、頭は回転しない、料理は作れないということが、よくわかった夏であった。*1

と、暑さを無理矢理、過去形にしつつ、残暑復活したらどうしよう…。

Tags: 近況

*1 そして、自分はひとりだけでほっとくとレモンティーだけで1週間くらい生きる怠惰な人間だということも


2010年09月10日(Fri)

ひまわりの種。

ひまわりの種を、庭と鉢とに蒔いたものの違いを、間近に見た夏だった。

どんなに小さな庭でも、地面に蒔いた種から育ったひまわりは、種をつける。

鉢に蒔いた種から育ったひまわりは、立派な花を咲かせても、そこで力尽きて、種をつけない。

Tags: 生活


2010年09月12日(Sun)

道筋が接続する時。

本を読んでいて、その本たちはもう10年以上、折に触れて読み返し、 そして眠らせということを繰り返しているのだけど、 その眠らせている期間に読んだり経験した別の事柄から、 「あぁ、なるほど、そういう道筋!」と 腑に落ちることがある。

本を読むって深いなぁ。

礼拝

イザヤ書6:5-7

Tags: 近況

2010年09月13日(Mon) ad

イザヤ6:5-7

イザヤ書6章5-7節

その時わたしは言った。

「わざわいなるかな。わたしは滅びるばかりだ。

わたしは汚れたくちびるの者で、

汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、

わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。

この時セラピムのひとりが火ばしをもって、

祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、

わたしのところに飛んできて、

わたしの口に触れて言った、

「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、

あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」

神を見てしまうと、死んでしまうという法則があるのだけれど、 聖書の中では、単純に「神を見たら死ぬ」ではなくて、 神と自分の間に義が成立していないと、死んでしまうというルールがある。

セラピムは、6つの翼を持ち、2つで顔を覆い、2つで足を覆い、残りの2つで飛びまわる、天の生き物らしい。 これが何だかよくはわからないし、非常に幻視的なものなので、その正体については探求しない。 ここでは単純に、天の聖なる生き物(≒天使)と受け止めておく。

ここで「わたし」は「汚れたくちびる」ゆえに、滅ぼされることを恐れる。 口ではなく、くちびるという言い方に注意。 口は飲食をする器官だが、くちびるは言葉を発する器官だから、 「汚れたくちびる」とは人の口から出てくる言葉。 具体的には悪口や裏切り、不平、へつらいなどか。 言葉によって、不義を働くということもまた、聖書に繰り返しでてくる。

けれど、天の使いは、燃えている炭(つまり火)をもって、その汚れを浄化する。

これが旧約聖書的な救い。 燃える炭、火によって浄化するというのは、 旧約聖書的な特徴。


2010年09月14日(Tue)

十姉妹を一羽、もらってきた。

十姉妹を一羽、もらってきました。真っ白なの。前からいるのは、模様がある。

で、今、キャリーケージから鳥かごに移したのだけど、先住さんが、いきなりジャンプキックしていた。そして、先住さんは、餌を「これはおれんだ!」と言わんばかりに誇示するかのようについばむ。

生まれて初めて親元離れ、移動してきて、初めての場所で、真っ白さんは、片隅でぶるぶるふるえている。

…大丈夫かしら…。

(時間経過)

と、思って、しばらく様子を見ていたら、こういう解釈も可能な気がしてきた。

長く(今年の5月から)ひとり暮らしだった先住さん、真っ白さんがやってきて、大興奮で猪突猛進求愛行動、次に早くなれてもらうために「こうやって餌は食べるんだぜ!」と教えてやる。そして、しばらく片隅で見守って、真っ白さんの緊張がとけてきた今、なんか、ふたりで並んでいる。じりじりと先住さん、真っ白さんに距離詰めながら。*1

(時間経過)

暑いのに、二羽、ぴたっと寄り添って、なごなごしている。かわゆすのぅ。

Tags: 小鳥

*1 しかしさらに後から考えてみて、小さな鳥かごの中で、社会的な順序が発生する瞬間だったのかも。先住さんが、自分の縄張りであることを示して、それに対して反撃しなかった真っ白さんが、受け入れられた、という風に。やはりあのジャンプキックは先制攻撃だったんだろうなぁ。あんな小さな小鳥でさえも、関係性ができるというのが観察できるというのは感心する。


2010年09月15日(Wed)

海。

一昨年、「わたし、海のそばで暮らしたい」と言ってた友人が、 昨年の初めに、本当に、引っ越しをして、海のそばに行ってしまった。

都会定住型のわたしには、ちょっと考えられない機動性だった。

その友人と、久しぶりにすれ違いざまに会い、 そのまま、10分くらい話をしたのだけれど、 なんだか、ぽろぽろと涙がこぼれてしまった。*1

きっと、その友人が身につけた海に、涙が誘われたんだと思う。

と、いうことにしておく。

*1 端的には、ちょい育児疲れ。

西洋の古典 イタロ・カルヴィーノ編

最近、わたしはユーロ系女子ブームなのだが、と、言っても、 「ユーロ系女子」というのは、いま、勝手に思いついた単語で、 フランスに傾倒した高橋たか子と、イタリアに傾倒した須賀敦子の、 二人の女流作家の作品を再読しているところ。 (何度目の再読か!) 目下のところ、この二人の女性が、わたしの中ではとてもアツイ。

その流れで、須賀敦子が翻訳した、 イタロ・カルヴィーノの『なぜ古典を読むのか』を手に取ってみた。 ずいぶん前に、買って、そのままかなり長いこと、積ん読したままの本。

買った当時は、序章の「なぜ古典を読むのか」だけを読んだ。 今回は、その目次を読んでいる。

で、気づいたのだけれど、この『なぜ古典を読むのか』に出てくる古典の流れが、 なんだかおもしろいのですよ。> madame!

オデュッセイア(古代ギリシャ)、アナバシス(古代ギリシャ)、 オウィディウス(古代ローマ)、プリニウスの『博物誌』(古代ローマ)ときて、 そこまでは、「うんうん。古代ギリシャよね、古代ローマよね」と思っていたのだけれど、 その次が、いきなり時代が1000年くらい飛んで、 ルドヴィーコ・アリオスト『狂乱のオルランド』。

よく知らなかったんだけれど、イタリアの1400年代後半の詩人で、 イタロ・カルヴィーノが傾倒した詩人らしい。

その後に、ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)やシラノ・ド・ベルジュラック(1619-1655)、『ロビンソン・クルーソー』ダニエル・デフォー(1660-1731年)と続く。

まだ目次を見ている段階なのだけど、 なぜこの流れ?この選び? なんだか、わくわくしている。

なぜ古典を読むのか
イタロ カルヴィーノ/Italo Calvino/須賀 敦子
みすず書房
¥ 3,465

Tags: 読書

2010年09月16日(Thu)

暑さがようやく峠をこえた。

雨が降って、むしろ少し肌寒さも感じつつ、 ようやっと夏の間、ずっと手を着けようと思いつつ、 できなかったデスク周りの整理を始める。

Tags: 近況

須賀敦子 静かなる魂の旅

2006年から2008年、BS朝日で放映された番組を、 再編集したDVDが『須賀敦子 静かなる魂の旅』というタイトルで9/9に出たらしい。 たまたま本屋で平積みになっているのを見かけ、一も二もなく、手に取ってしまった。

DVDの他、愛蔵本と称して、小綺麗な冊子が入っていた。 その冊子には、写真や、また、須賀敦子の縁のある人々のメッセージが入っていて、 その中でも、愛弟子と言われるジョルジョ・アミトラーノ氏の寄せた 「須賀さんの思い出」というエッセイがとても良かった。

エッセイには、いくつかのエピソードが入っている。 初めての出会いや、 一緒に翻訳の共同で行った時のこと、 また、須賀敦子の文体についてのちょっとした考察、 いろいろあるのだけれど、 特に、病床の須賀敦子の見舞いに行くとき、 花屋で花を買おうとして、 須賀敦子のイメージを店員に伝えようとして、 言葉をのんだたくだりは、 なんと説明したらいいのだろうか。

わたしは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』で ジョバンニが、サザンクロスで降りていった青年と女の子と交わした、 「ほんたうの神様」の会話を思い出した。*1

須賀敦子 静かなる魂の旅---永久保存ボックス/DVD+愛蔵本
須賀 敦子/中山 エツコ/ジョルジョ・アミトラーノ
河出書房新社
¥ 5,040

宮沢賢治全集 (7) (ちくま文庫)
宮沢 賢治
筑摩書房
¥ 1,050

Tags: 読書

*1 「静かなる魂の旅」ってずいぶん ベタなタイトルだけど、 でも、もし、「銀河鉄道の夜」と掛けて、 あえてこのタイトルにしたのならば、深い。 須賀敦子の信仰と文学は、ほんたうの神様を求めつつ、 人間はその思いを共有しきれないせつなさにあると思うので、 二重にも三重にも重なった深い層がここにある。


2010年09月17日(Fri)

この夏、受けた講義のこと。

この夏のことを少し書いておこう。

とある大学で7日間、西洋中世史と英語学の講義を受講した。 午前中二コマ、午後二コマ、これが日曜日をのぞき、7日間ぶっ通しである。

西洋史は、じつは高校でも現役の大学の頃も受けたことがなく、 話についていけるか不安だったのだが、 先生は、中世のキリスト教異端が専門だそうで、 社会の変動と、その社会のなかでキリスト教がどうあったかを話して下さり、 これは、聖書時代以降、今の時代のキリスト教が、 なんだかすっぽりブラックボックスだった自分にとって、 とても大きな意味のある講義だった。

少しずつ、日記に書き始めているように、 わたしは須賀敦子と高橋たか子という二人のカソリックの女流作家に非常に惹かれているのだけど、 西洋史を理解することは、この二人の作家作品の理解にもつながる。 この講義を受けた後、改めて、二人の作品を読み返しているのだけど、 作中に今まで気づかなかった道(脈といおうか)が見えたりし、 講義の初日に、先生が 「歴史は、古代、中世、近代と、どこかの年やどこかの地域で きっぱりと分断されているわけではなく、 どこかしら、何かしら、受け継がれ、かたちをかえ、つながっているのです」 と、言っていた言葉が何度も思い出される。

英語学は、もしも英語の例文ばかりが沢山出てきて、 辞書と首ったけだったらどうしようか、と、思いつつ、 えいや、と、取ってみたのだけれど、 蓋をあけてみたら、むしろ、言語学というもので、 ソシュールの構造主義にはじまり、チョムスキーの生成文法、 そして、認知言語学や社会言語学という、言語学の流れと、 言語にまつわるさまざまな概念や、 アングロサクソン系の文化と日本文化を比較した価値観の違いを、 日本語で丹念に講義してくださるものだった。

この英語学の講義を受けて、ようやく、わたしは手元にあった テリー・ウィノグラードの「協調活動の設計における言語/行為パースペクティブ」を<読む>ことができた。 ウィノグラードは、最初、人工知能の専門家だったが、 のちに、人間とコンピュータの相互関係の方向、つまり、第3の道へと転向している。 コンピュータやウェブを理解するのにも、 この英語学の講義がとても意味あるものだったと思う。

そして、もう一つ英語学では、学問に対する大切な姿勢を教えてもらった。 先行論文をたくさん読み、どの体系の上に、自分は乗っかるのか。 そこをしっかりしないと、意味はないということ。 わたしはまだ、学んだばかりの学生にありがちな、 「こんなのもある。こんなのもある」と 並べ立てるばかりの力のない者だけれど、 見晴らしのある体系に登りたい。

そんな体系への登山はいつできるのか、一生できないまま終わるのか、まだわからない。 この夏受けた二つの講義で、今まで<読む>ことのできなかったテキストを、 読めるようになったのは、少し体力がついたように感じられたが、 一方で、専門家という方々の、体系に対する取り組みの強さ、激しさ、凄さを実感でき、 自分がいかに不勉強であるか、恥を知った。 恥を知れてよかったと思っている。


2010年09月18日(Sat)

映画『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』を観てきた。

2004年から改築中(そして現在は、改築が遅延中)のアムステルダム国立美術館のドキュメンタリー。(本当に美術館が再開できるのか)続きが気になる。

ドキュメンタリーの最後の方で、「えぇ?!閉じないで!!」と思う場面があったのだけど、よく考えてみたら世界規模にドキュメンタリー映画として"開いて"いるのであった。すごいな。

Tags: 映像

2010年09月19日(Sun)

東から西から、また南から北から

  • イザヤ書43:5-6

  • ルカ13:29

  • 宮沢賢治 雨ニモ負ケズ

2010年09月20日(Mon)

ツディ

夏の尋常ならざる暑さを乗り切ったものの、やはり、アジアンタムやベビーティアーズは枯れてきてしまった。アジアンタムは、枯れた部分を切り、こまめに霧吹きをすることで、新芽がでてきているのだけど、ベビーティアーズはどう手をつけたら良いかわからなくて、結局、ツディに植え替えた。

生命力が強いのは、やはり、ポトス。あと、シマネトリコ。

週報と週報ボックスについて

もし、あなたが教会にきて、初めてもらうものがあるとしたら、それは「週報」かもしれない。受付で、新来者として告げると、聖書をお持ちですか?お貸ししますというような簡単なやりとりがなされ、それと一緒に、「これには礼拝のプログラムが書いてあります。お持ち下さい」とわたされる一枚のペーパー。それが、週報と呼ばれるものです。

聖書や賛美歌は貸し出すものなので、次の人のために返却する必要がありますが、週報はそのまま持ち帰って構わないものです。

また、週報がいつ頃から教会に根ざしているか知らないけれど、あまりにも日常のものとなっているので、教会に来る人はそれがあるものとして当然と思い、初めて来る人に少し説明が不足しがちな、そんな存在のもの。

週報には、礼拝のプログラム、その週にある所集会のお知らせ、先週の来会者数など、だいたいそのようなものが掲載されているけれど、教会によって項目や形式は異なります。

そして、洗礼を受け、その教会の教会員になると、週報は受付で手渡されるのではなく、ひとりひとりに「週報ボックス」という郵便受けのようなボックスが割り当てられ、その中に入れられます。都心の大きな教会では、日曜日以外は扉で覆われ鍵がかけられたりもしますが、家庭的な教会では、特別鍵がかけられるようなこともないようです。週報ボックスは週報が入れられることが主な役目ですが、教会にはさまざまな集会があるので、対象者向けに資料や手紙が入っていることもあります。

わたしは今の教会へは、洗礼を授かってから2度目の転会だったのですが、引っ越しで新しい地に根ざそう、根ざしたいと、その教会に初めて行った時に、牧師先生が、本来はその教会員以外には週報ボックスは割り当てられないのだけど、ぱっと、「では、あなたの週報ボックスを用意しましょう!」と用意してくださったのが、とても印象的でした。

また、週報に話を戻すと、結局わたしが前の教会から今の教会へ転会するその時、相互に週報を送りあってもらったことがありました。これはプロテスタントに普遍的なルールなのかどうかは知りません。クリスチャンは洗礼以外、何の証明書もないのですが、教会から教会へ渡る時に、(教会自体の存在を含めて)週報を用いて、こういう風に確認することがあるんだなぁ、と、思いました。


2010年09月22日(Wed)

「あ、ジョバンニ」

と、須賀敦子が思ったかどうか、知らない。

けれど、須賀敦子が初めてイタリアに留学した土地、ペルージャは、アッシジのフランチェスコに縁の深い土地で、フランシスコの洗礼名はジョバンニだったそうだ。1983年に書かれた「宗教詩ラウデの発展について」*1で、「さらに彼自身、洗礼名がジョヴァンニであったにもかかわらず、彼の誕生のときにフランスに旅行中だった父親が、帰国後にその名をフランチェスコに改めさせたという伝承など、彼の身辺にはフランスにかかわる逸話が多い。」とあり、イタリア風のジョヴァンニという名前だったのに、それが変えられてしまったのは、残念であるという風にも読める。

フランチェスコの名前がジョヴァンニであることを発見した時、「あ、ここにもジョバンニが居る…居た!」と思ったかどうか、わからないけれど、ジョバンニ、と、いうと、おそらく須賀敦子がその名前を初めて触れたのは、宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』の、あの主人公のジョバンニだったのではないかと思う。

『銀河鉄道の夜』でほんとうの神様を求め続けたジョバンニと、フランチェスコと改名されたアッシジのジョヴァンニを、安易に重ね合わせることは、よくないことだし、須賀敦子がそのふたつを重ね合わせて考えたかはわからないけれども、須賀敦子が文学の中でもとりわけ詩を愛したその背景には、宮澤賢治の影響があり、そして宮澤賢治の童話も深く須賀敦子に影響を与えているのではないかと思う。

須賀敦子はイタリアで『どんぐりのたわごと』という冊子を自分で作り、そして日本に送ったいた。その7号(1960年12月)の「こうちゃん」という童話は、野山のなかをそっと駆け巡り、気がついたらそばにいて、ここにいるのかどこにいるのかわからない、少年とも少女ともわからないこどもを描いているのだけれど、その存在は、あまりにも『風の又三郎』のようだし、その次号(1961年1月)に書いて送った「希望をうえて幸福を育てた男」(ジャン・ジオノ著)の翻訳のあとがきには、宮沢賢治の虔十公園林をイタリアの友人に話したら、その話によく似た話だと原文を渡されたものである、と、書かれている。 イタリアに居るあいだも、景色を眺め、人と話し、本を読みしている折々に、「あ、ジョバンニ」「あ、賢治」と、たびたび、思い巡らしていたのは、間違いないのではないか。

『銀河鉄道の夜』のジョバンニといえば、思い出されるのは次の会話だ。

「もうぢきサウザンクロスです。おりる支度をして下さい。」青年がみんなに云ひました。

「僕も少し汽車へ乗ってるんだよ。」男の子が云ひました。カムパネルラのとなりの女の子はそはそは立って支度をはじめましたけれどもやっぱりジョバンニたちとわかれたくないやうなやうすでした。

「こゝでおりなけぁいけないのです。」青年はきちっと口を結んで男の子をみおろしながら云ひました。

「厭だい。僕もう少し汽車へ乗って行くんだい。」

 ジョバンニがこらへ兼ねて云ひました。

「僕たちと一緒に乗って行かう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ。」

「だけどあたしたちもうこゝで降りなけぁいけないのよ。こゝ天上へ行くところなんだから。」

女の子がさびしさうに云ひました。

「天上へなんか行かなくたっていゝじゃないか。ぼくたちこゝで天上よりももっといゝとこをこさへなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」

「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまが仰っしゃるんだわ」

「そんな神さまうその神さまだい。」

「あなたの神さまうその神さまよ。」

「さうぢゃないよ。」

「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑ひながら云ひました。

「ぼくほんたうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんたうのたった一人の神さまです。」

「ほんたうの神さまはもちろんたった一人です。」

「あゝ、そんなんでなしにたったひとりのほんたうのほんたうの神さまです。」

「だからさうぢゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんたうの神さまの前にわたくしたちとお会ひになることを祈ります。」青年はつゝましく両手を組みました。女の子もちゃうどその通りにしました。みんなほんたうに別れが惜しそうでその顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出さうとしました。

少し長い引用になってしまったけれど。

この場面は、クリスチャンの青年と二人の少年少女が、ジョバンニとカムパネルラと乗り合わせた、銀河鉄道の中での別れの場面です。

ジョバンニにとってはいくつもの自分を裂かれるような会話が連なっている。

ひとつは単純に、一緒に旅を続けたいと思うような人たちが、ここが自分たちの降りる地点だと、別れを告げられること。

もうひとつは、ジョバンニはこの世界に天上のような世界を作ることこそが大事だと思っているのに、青年達はこの世界に天上を一緒に作り上げることを放棄して、先にすでにある天上に入ってしまうこと。ジョバンニの考え方は、須賀敦子の信仰の姿勢にもよく似ている。須賀敦子は、教会の外にこそキリストの愛がたくさんあると信じ、イタリアでは左翼活動をするコミュニティに出入りしていた。、

最後のひとつは、互いにほんとうの一つの神さまを求めているのに、ジョバンニには、青年の示す神さまがどうしても理解できない、自分に関係があると思えない。でも、互いに、「ほんたうの神さま」を信じる思いは、深く深くあるのに、どうしても共有しきれない、つらさ。こうした宗教観、正しく云うと、宗教を信じるがゆえに、どうしても、共有しきれない、価値、それが人と交わる時に、刃となって自分と相手の間の何かを深く切り裂くようなことは、信仰を持つ人ならば(持たない人でも)、経験するつらさだろう。

そして、須賀敦子は、さまざまな土地で、人と交わりあいながら、やはり、そのような思いをたくさんし、それを乗り越えて、キリスト者としての自分を、決して手放さなかった人なのだと思う。また逆に、そんな繊細な人の信じる心を知っていたから、彼女の文章は、「静謐な」と形容されるほどに抑制の効いた文章になっていったのではないかとも思う。

『須賀敦子 静かなる魂の旅』というDVDと冊子のセットになったものを、先日、わたしは手に入れた。おそらく、須賀敦子の死後12年目のメモリアルなものだと思う。中に、「須賀さんとの思い出」という須賀敦子の愛弟子であったという、イタリア人男性のジョルジョ・アミトラーノ氏がエッセイを寄稿している。

そのなかで、アミトラーノ氏は、病床にある須賀敦子の見舞いに行く途中、花屋で花を買おうとして、こんなことをした。

花屋さんは、「どのようなプレゼントですか、お見舞いですか」と聞きます。お見舞いでしたが花屋さんが何か悲しそうな花をつくったら困ると思い、「いや、お見舞いではありません」と言いました。(中略)

 私はそのとき初めて、須賀さんのことは誰にも説明できないと悟りました。(中略)

 だから私はその花屋さんに「いや、そんなことは忘れて、素晴らしい人のためにいちばん素晴らしい花をアレンジしてください」と言いたかったのですが、そんなことは言えず、「何かちょっときれいにしてください」とだけ伝えました。

アミトラーノ氏の、花屋の店員に須賀敦子の存在を説明しようとして伝えられない、そして素晴らしいことを伝えられない思いは、まるでジョバンニの「ぼくほんたうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんたうのたった一人の神さまです。」という気持ちによく似ているようではないか。

そして、ジョバンニは親友のカムパネルラを失うという最後だけれど、アミトラーノ氏も死の病床にある須賀敦子を失う覚悟をしつつ、けれども、そこに、天上でまた会えるという須賀敦子の抱く信仰の希望があるがゆえに、ただただ、すばらしい人のために、すばらしい花を贈りたいという上昇的な思いを描いたと思う。でも、この文章が出てくるまでには、12年もの歳月がかかっているということも同時に思う。

*1 p.85 須賀敦子『須賀敦子全集 第6巻』


2010年09月23日(Thu)

須賀敦子とか高橋たか子とか。

イタリアだ、フランスだ、カトリックだ、というのに、騙されてはいけない。

彼女らは、広義におけるカウンターカルチャーの人。

そして、それぞれ、ヨーロッパにおけるカウンターカルチャー的コミュニティの失敗を、書いて本にしている。

高橋たか子は『私の通った路』で、須賀敦子は『コルシア書店の仲間たち』で。

先日みた、『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』もそうだけれど、ヨーロッパは、失敗を表明するのを、厭わない、躊躇しない、勢いがある。そして、そうした失敗に、どこか、ユーモラスなものを漂わせさえする。

それは、なぜ?


2010年09月24日(Fri)

さえずりというよりは、

小鳥が二羽になり、 気がついたのだけれど、 朝、さえずりがすごい。

さえずりというよりも、 かしましい感すら漂う。

Tags: 小鳥

2010年09月25日(Sat)

液肥を買ってきた。

これ、容器に計量カップがないのがちょっと残念。キャップが計量タイプになってればよかったのにな。 と、思いつつも、何かの容器についてたキャップがたまたま20mlと10mlの線がついているものだったので、それを専用カップにすることにした。

ヨハネ1:9

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。


2010年09月26日(Sun)

パイプオルガンコンサート

教会でパイプオルガンのコンサートを聴いてきた。 バッハ、ダンドリュー、コレット、バルバトル、ボエリー、ブヴァール、ヴィエルヌと 1600年代から1900年代をほぼ時代順にした、また、曲調も多岐にわたって、 パイプオルガンの機能をあますことなく披露した演奏会だった。

そして、奏者の演奏も配慮もすばらしかった。 つつつ、と、作曲者を並べてしまったけれど、 不勉強なわたしは、初めて名前を聞く作曲者もいて、 そのひとつひとつを、演奏前に簡単に解説をしてくださって聴けたのはありがたかった。

特に、ルイ.ヴィエルヌ。 全盲だったにも関わらず、 ノートルダム寺院の奏楽を長年にわたって務め、 また、音楽教師でもあった、と、紹介されていた。 どんな人だったのだろう。

通過するだけにしても。

パイプオルガンは、林立した大小の管の中を、 ふいごのように空気を送られて、 音を出す楽器だ。

空気は、ただ、空気なのに、 管を通ると音になる。

そして、 人間が奏でると音楽になる。

音楽は、緻密に構成された音の束で、 それを再現するためには、 知るだけではなく、 膨大な訓練が必要になる。

ただの空気なのに。 空気が音楽になる。


2010年09月27日(Mon)

すこし時間の余裕を作ったので

精神的にも余裕ができるかと思った。

こどもがおもらししてしまっても、 怒らないで対処できるかと思った。

幻想だった。

時間の余裕を作って、 あらかじめできるのは、 こどもに目をかけて、 適宜、トイレに誘導してやることだ。

でも、 間隙を縫って、 「あっ」と 失敗されると、 たまらない。

単純に排泄そのものの持つ不浄さに対する嫌悪というよりも、 うまくコントロールできない自分や状況に苛立たしさを覚えて、 怒ってしまう。

なんだか、こういう感情をぽーんと日記に置くのも、 どうかな、と、思いつつ、 まぁ、 ほんとは、 ずっと、手放せなくて、 どうしようかとじたばたしている問題なので、 たまには、書いておくことにします。

ヨハネ1:9

Tags: 育児

2010年09月28日(Tue)

ふとっちょなまっしろさん

この前やってきた、白い小鳥は、 みていると、えさを食べるのが好きみたいで、 4ヶ月前に生まれた先住さんよりも、 ひとまわり大きい。

Tags: 小鳥

祈ろう祈ろう。

天の神さま

わたしは小さな器で、 いつもいつも、 あわあわとしています。

よいものも、 わるいものも、 識別できずに、 曇った目で、 あれもこれもと、 むさぼろうとしてしまいます。

いま、 あなたが介入し、 この小さな器を、 あなたの愛で満たすために、 すっかり明けてください。

わたしの唇は、 汚れていて、 あなたの愛を語ろうとしても、 いつも思わぬことを口走ってしまいます。 どうか、どうか、 あなたがこれを清めてください。

そして、 わたしの唇が罪をおかしたときには、 どうかそれを悔い改めて、 行いを正すことができるように、 はげまし導いてください。

日々の雑事は、 つぎからつぎへとやってきて、 わたしをずたずたにしていきます。 あなたがこれをどうか整えて、導いてください。

はじめからおわりまで、 あなたがわたしとともに居てくれますから、 わたしは恐れることなく、 今日も一日を終えることができます。

深く感謝します。

主イエス・キリストの御名をとおして、

アーメン


2010年09月29日(Wed)

かわいいとかうつくしいとかきれいとか

私「そういうのって、どうやったら、わかるの?」

友人「ハートですよ。あなた、小学生のころ、ハートを谷底に落としてきてしまったんじゃない」

私「……かあさん、ぼくのあのハート、どうしたんでしょうねぇ?」

という、どうしようもない会話を繰り広げつつも、 わたしが観察しているところ、 その、かわいいとかうつくしいとかきれいとかの、 感性が、とてもとても鋭くて、また、それを表現できるその人は、 なんどもなんどもなんども、繰り返すということを厭わない人なのだ。 そこへ、向けて。

オリヅルランの剪定をした。

夏のあいだに、オリヅルランが細長い花茎を四方八方にのばし、花咲かせ、そして株をたわわにつけてくれたのは、 ちょっと迫力があって楽しかったのだけれど、それにしても、 のびすぎ。

花茎を7~8本ほど、切りました。


2010年09月30日(Thu)

聖書通読?

「40回、読んだんだけれどねぇ。死ぬまでに100回聖書通読できればいいなって思ってるのよ」

教会に居ると、なんでもないふつうの人が、さらっとそんなことを言う。

それがとても当然であるかのように。特別なことではないかのように。

1回の通読も大変なのに。40回も通読したなんて。そして、死ぬまでに100回。


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