2018年05月02日(Wed)
■ 彼は
「彼は叫ぶことなく、
声をあげることなく、
その声をちまたに聞えさせず、
また傷ついた葦を折ることなく、
ほのぐらい灯心を消すことなく、
真実をもって道をしめす。
彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。
海沿いの国々はその教を待ち望む。」
イザヤ書 42:2-4
2017年10月09日(Mon)
■ 神の言
ある尊敬するクリスチャンブロガーさんが、その方はご自身が神様との繋がりを思い出し思い出し、日々の生活を歩む上で、教会が執り行う聖餐式が欠かせないと記されていた。
わたしは、あまりそこに重きを置いてなかったので、その考え方は羨ましくも新鮮に感じた。でも、いま、様々な事情が重なり、聖餐式はおろか、教会の礼拝にも、クリスチャンの集いにも行かれないでいる。
今は、わたしにとっては黙して、日々、聖書を読み、音声の説教を聞き、静かにしている時が与えられているのだと思う。
聖書を読んでいると、「わたしたち」とか「民」という表現が頻繁に出てくる。神様との関係は、1対1ではなく、神様とわたしたちという関係性が大切なのだと思う。その中において、主を愛し、自分を愛するように隣人を愛していくことが、とても大切なのだろう。
聖書を読む時に、いろいろな読み方がある。
歴史書として読む人もいれば、物語として読む人もいる。でも、神様がわたしに(わたしたちに)語りかける言葉として読むことが、信仰に立って読む上で大切な姿勢だと、学んできた。
だから、余計に、「わたしたち」や「民」が出てきた時に、一人でいる自分は辛くなる。それでも、神様を、イエス様をわたしは信じる。
聖書にこう書いてある。
「はじめに神は天と地とを創造された。 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。」 創世記 1:1-3 JA1955
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は初めに神と共にあった。 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。」 ヨハネによる福音書 1:1-4 JA1955
言葉ではなく、言(ことば)。ここでは明記されてないけれど、読めば、これはイエス様だと分かる。
イエス様は神の言であって、命であって、人の光なんですね。
神の言であるイエス様は、神の霊である聖霊によっておとめに宿り、人となって、2000年前にこの地上に歩かれた。
と、同時に、聖書は人間が書いたものだけれど、書かせたのは聖霊なんですね。イエス様がおとめに宿ったように、聖霊が、神の言を人に記述させて聖書をこの世に宿らせた。どうして?それは、イエス様を信じる者が一人も滅びず永遠の命をいただくためです。この受け止め方には、反論ある方もおられるでしょうが。
聖餐式は目に見えるパンとぶどう汁をキリストを覚えていただくものであり、聖書は神の言を霊の糧としていただくものである。
神様は待っている。あわれみといつくしみを持って、小さな、愚かな、罪人が、「神様、あなたの助けなしには、生きることが出来ないのです。わたしを思い出してください」と、悔い改めて、求めるべき方に求めることを。
主イエス・キリストの平安が共にありますように。
2017年09月10日(Sun)
■ わたしの魂を主に向かって解き放ってください。
長年、その日記を読ませてもらっているはちこさんのスコット・マクナイトの新刊 : ミルトスの木かげでを読みました。
最後に書かれた一文に心が留まりました。
ああ主よ、私のたましいが、あなたに向かってオープンであり続けることができますように。
主に向かってオープンである、開かれている。
そこで湧いてきたイメージがありました。
わたしは言葉拙いので、うまく書けるか分からないけれども。
荒野でも、野原でも、広い広い空間があって、そこに、一羽の小鳥が放たれる。
その小鳥は、レビ記14章1-7節に出てくる小鳥。
レビ記では、人々から隔絶され忌み嫌われたらい病人が清い者とされるために必要な儀式がここに書かれてます。
神様は、二匹の小鳥を用意すること、流れる水を注いだ土の器の上で一羽を殺して血を流させ、もう一羽を香木、緋の糸、ヒソプとともにその血の水に浸してから、その水を清められるらい病人に七度注ぎ、生きてる小鳥を野に放つ、と、記してあります。
ある牧師のメッセージでは、この死んだ小鳥はイエス様の十字架で、野に放たれた小鳥はあなただ、と。
イエス様があなたの罪の身代わりに死んだのだから、あなたは清く生きよ、と。
オープンと、解き放つは、少しニュアンスが違うかもしれないのですが、魂を主に向かってオープンにする、と、読んだ時に、殺された一羽の小鳥は十字架のイエス様、そして、野に向かって解き放たれた小鳥のイメージが浮かびました。
わたしの魂を主に向かって解き放ってください。
朝ごとに新しく。