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shinoのときどき日記


2009年10月03日(Sat)

母として。(仮題)

昨日、あるところから、「子育てをしてたのしいことを書いてもらえませんか?」(記事ではなく、アンケートとして)という依頼がきた。即座に、「申し訳ないけれど、子育てをたのしいと思えることはないので書けません」とおことわりした。

そのあと、たまたま偶然、twitterで同じ年頃の子供たちを育てている母たちが、興味深い会話をしていたので、それに加わったりしてみた。

それぞれの立場で、それぞれのご事情で、さまざまな問題を抱え悩みつつも、日々を前進しているすばらしい女性たちである、と、思う。

まず、出た問題は具体的で、その方々はワーキングマザーなのだけれど、「こどもが病気などで仕事を休まなくてはならない場合、同じ職場の同僚とどう助け合うか」。これは「なるべく迷惑をかけたくない。けれど、事情が発生した場合は、お互い様、で、助け合えればいいと思う」という意見が出ていた。

それに対して、「じつは、お産や子育ては、自分の経験から、他者を理解できないことも多いのではないか。お互い様と言いつつ、じつは自分の経験が阻害して、相手を真に理解できないのではないか」という意見がでた。然り。「自分がこうだったから、きっと、相手もこう」なんて判断はしちゃいがち。でも、これは、駄目。お産、こ育てと一言で言ったって、内容は千差万別なのだ。パラメータがそれぞれ異なるゆえに、「自分がこうだったから」は相手に通用しないことは多々ある。そこで、不理解が発生する。

ただ、わたしが思うのは、「不理解を前提とした理解」は成立しないか?ということ。ジレンマ的なんだけど、わたしはお産や子育てをとおして、「いかに自分がお産をわかってなかったか。子育てしてたって、みんな違う」ということが経験として、何度も壁にあたりつつ、実感してきた。つまり、母という役割を通して、すべての人とは言わないけれど、ある種の人には、「わからないことがわかる」ということが経験を通して認識できるようになると思うのだ。

たとえば、車いすの人や、松葉杖の人などを見ると、わたしは経験したことがないので常識的に「大変そうだな」とまでは思うのだけれど、でも、どういう部分が具体的にどう大変で、どうすればそれを改善できるかまでは思い至らない。いや、想像してみて、思い至ったつもりになったとしても、本人のしんどさというのは、本当にはわからない。わからなくていいのだ。だってしょうがないんだもん。だから、せめて凡人は、そのわからない自分、至らない自分に気づくことが大切で、安易な表面的な同情を寄せるのはちょっと違うかと思う。(無関心であれ、ということではない)。

相手を尊重するということは、相手に安易に理解を示すことではない。相手のしんどさを安易に「わかったわかった」なんて言うのは、余計、相手にとってはつらいことのように思うのは、わたしが斜に構えすぎているせいだろうか。せめて、「しんどいだね」という気持ちを察するくらいしか、できない。

さて、もうひとつの問題として、ロールモデルの存在がない。という問題があがっていた。手本、規範となるような、母なる先輩がいない、という問題。これはどういうことか。率直なわたしの考えとしては、「ロールモデルというものは、もたない方がいい」なのだけれど、別の考え方もあるようだった。

わたしなりに考えてみたのだけれど、こういうことなのかもしれない。(しかし、たぶん、惜しいけど違うという声も聞こえてきそうだ)。まず、いわゆる雑誌などで提唱しているカリスマ主婦など。これらがロールモデルか。それは否だ。「こういう母像は、理想ですよねー」という提案、アイドルなのだ。わたしが真に欲しているロールモデルは、理想像とかアイドルではない。そういう人になれたら自分も幸せ、というものではない。

では、何がロールモデルか。ひとつは、事実の蓄積およびその分析から導き出されるパターンのようなものかもしれない。そうしたものは、いわゆるライフハックと呼ばれるもので、集合知として、有用なデータを提供してくれることもあるだろう。

そして、もう一つ、真のロールモデルとしてあってほしいのは、「体験の意味およびコンテクスト」だ。ある種の人々には、意味を作り出す力がある。これは前に述べたアイドルに近いと思われるかもしれないが、そういう勝手に作り上げた理想像ではない。日々体験しつづけること、これらからは、意味が読み取れないことが多い。むしろ意味のないことも多々あるかもしれない。ある種の人々は、「それはあなたにとってこういう意味がある」と教えてくれる。

無意味な体験を繰り返すこと、無意味と思われる状況の中に身を置いていることは、かなりしんどいことだ。そうした体験の中から、意味をくみ取りだし、与えてくれる人。ロールモデルの本来の意味からづれるかもしれない。むしろ、メンター的な存在かもしれない。そうしたメンター的な存在が示してくれる、自分自身の体験の「意味」がロールモデルと、勝手に解釈してみた。

と、いろいろ書いてみたけれど、まだ釈然としない。どうすれば、ラクではなく、たのしく、子育てってできるんでしょうね。どうすれば、たのしく自分を生きられるのでしょうね。まだまだ模索は続きます。

Tags: 育児

2009年10月07日(Wed)

続・老子からWikiWayへ

2008/10/06 23:28 テキストプレイ 30分一本勝負でテーマを決めてずっと打鍵を続ける「テキストプレイ」というゲームがあることを知る。これをためしてみるというのがこのテキストのテーマのひとつめ。冒頭にスタート時間を押した。最後にもう一度終了時間を入れてみよう。これでひとつ成り立つ。さて、本文のテーマ。夏が終わってからずっと考え続けている「老子からWikiWayへ」というテーマ、八月のWikiばなでは中途半端に終わってしまったのだが、その反省点と今後の展望について考えたい。反省点のひとつめは、老子からみごとにWikiにつながらなかったという点だ。これについてはもうしわけない、あの時点で調査がそこまでしかいかなかったのだ。というしかない。ふたつめは、安易にあれとこれとそれとをつなげようとしたことかもしれない。魂にびびっとくる、エクスタシーを得られるような結論を言えなかったこと。まず、ある人のアドバイスを記しておこう。それは、老子に諸説あることがわかったけれど、そのなかで、自分自身がどの説を採択し深めるかという腹のくくりが足りないということである。確かに。諸説あったどれをわたしが採択し、物語をつくるかというのが確かに腹をくくれなかった。これはと書いたところで早くも電池切れで一回作業を中断してしまった。ごめん。でも続けてみよう。さて、わたしは老子のどの説をとるか。ずばり、「老子は実在する人物ではなかった」説である。そして、次に、史記の中で、老子が周国からやってきた人というのに着目したい。孔子や史記は、いわば黄河文明系の文化である。それに対して、老子の出身地とされるのが長江文明系である。最古の老子として発掘された1970年代、1990年代にでてきた絹でできた書や竹でできた書は、いずれも長江流域で発見されている。このことからも、老子は、孔子や史記が中心とした黄河文明系列のものとは違うことがわかると言えるのではなかろうか。そして、史記の中での老子の歩みであるが、これも、いずくにかきていずくにか去るというパターンである。つまり、異人なのだ。その国の土着の人ではない。つまりさすらい人なのである。こういう事実から鑑みて、老子というのは、やはり、一種の文明と文明が出会った境界の話なのではないかと思うのだ。だからそれがどうwikiと関係するかというと、ネタ的にいうなら、「老子はつまり小人さんである」ということだ。wikiにすんでる小人さんは老子の資質を受けついたものと言えるかもしれない。だが、それだけではつまらない。wikiというひとつの境界をはっきりさせたエリアがあって、そこに人がかかわるパターンは、老子に通じるということもいえるかもしれない。老子のパターンをしっかりみれば、Wiki上でのふるまいのベストプラクティスが学べるかもしれないという示唆を入れておこう。さて、次に、境界問題について考えたい。境界問題というと、はちこさんが翻訳されたいくつかの著書に詳しい。つまり人は境界を持っているということ、それが健全に保たれて、人は健全な人間関係を作り出せるということである。で。wikiだ。wikiはある意味、意図的に境界を破壊している。しかしそこから創造がはじまるのである。wikiと境界問題を論じたものはないだろうか。わたしはまだ、みたことがない。民族学や歴史学では、中沢新一の叔父にあたる網野善彦氏が境界問題については論じていたらしいが、学会やアカデミズムのなかでは評価はかなり分かれているらしい。また、本人も「境界」問題は、何にでも適用できてしまうバズワード認識があったらしく、初期のころには提議したが、のちに、それは引っ込めているようだ。って、ちょっと違ったかな。網野善彦ではなく、心の師匠としている赤坂憲雄のほうだったかもしれない。たしかに、境界・異界・まれびとは、さまざまな分野に適用できやすく、それゆえに、本当の本質を見失いがちになるかもしれない。だが、一回、wikiにおける人間の行動分析を「こびとさん」という観念以外からも考察するのはひとつ挑戦してよい課題だと思う。そして、誰かがそれをまとめた上で、反証、など、議論をすすめるのはおもしろそうに思える。さて、wikiが境界を壊しているというのは何かというと、つまり「編集」機能である。この編集機能ゆえに、通常ひとつのドキュメントはひとりの作者によって書かれるという固定感をなくしてしまった。そこが大革命だと言える。どうしよう。テキストルールにのっとるのがむずかしいぞ。続けて書こうとするけれど、つい、「思考」がするりと入り込み、「そうではないかもな」と手を止めてしまう。ええい、そのような思いはされ。そして、続きを考えろ。つまり「編集」機能は、破壊とともに創造をうみだしているのだ。これは「イノベーション」である。Wikiページのラディカルさは、このイノベーションを機能のほぼ中心においていることだろう。先日、「オープンソースの成功」を読んだが、そのなかで、「イノベーションは、破壊と創造であり、いまのところ、破壊ばかりに目がいって、再生産的な創造に目が及んではないのではないか」という指摘があったようにおもう。wikipediaはどうだ。Wikipediaに編集をした経験は少ないが、それは、ちょっとなかなかしんどいものだった。自分が作った文章が、批判にさらされ、更正されていくのだけれど、正しく自分がなっとくするものならば受け入れられる、けれど、「え?その方向からそう入れる?」という修正や警告が入ったときはもう困った。これはwikiの破壊だろう。しかし、その破壊感を乗り越えて、創造はあるのかもしれない。wikiの創造に至る道は、合意形成にある。合意形成というのは、参加者、関係者みんなが合意を形成し、ひとつの何かを成し遂げたり、つくりあげることだ。wikiの破壊を過ぎ越してはじめて、wikiは創造にたどりつく。この渦中は、わたしのようなやわい人間にはとても耐えられることではない。いや、一定の何かがあるのあもしれない。乗り越えるための、精神的なあり方。それはなんだろう?よくわからないけれど。さて、Wikipediaもそうだけれど、Wikiというのは集合知を促進するツールとして存在するともいわれている。そこに意義が見いだされているのだ。Wikiに関わるのは、ひとりではまとめきれない知をそこに構築することにあると思う。単なる情報の寄せ集めかもしれないけれど、厚め方、Wikiという場づくりには、もっと、何か必要な気がしている。Wikipediaでもよくつまづく、参加者同士のコミュニケーションだ。コミュニケーションをどこでとるか、つまり、合意形成をどうしていくか、というのは、wikiのひとつの課題だろう。そうしたときに、いくつかのやり方はある。たとえばライセンスを明示する、そのWikiの憲章をつくるなど。合意形成は町づくり用語で、ファシリテーションの技術など、いろいろ研究されている。「パターン、Wiki、XP」という本があり、この中では、2つの合意形成テクニックが紹介されている。ひとつは、高速道路を作るときに数学的に集合領域を重ね合わせて最適解を得る方法、もうひとつはパターンランゲージを使う方法が書かれている。これらを体験できるワークショップがあるといいと思ってる。さて、また、話を変えよう。と、いっても、老子からはそんなにづれないはずだ。ネット上の空間は広く、どこでも自由にアクセスできるというのが理想とされているけれど、じつは、本来、人間はそんなに自由にあちこちいけなかった。または漂白という行動を通して、移動を行った。道については白川静がおもしろいイメージを提議している。つまり、道という字は、「異族の首をもって、除霊しながらすすむのだ」「道というのは本来神が往来する道であり、そこを人間が進むのは恐怖であった」という話だ。Wikiという道を進むときに、何をもって進んでいるのだろう?その痛みは、異族の首に該当するものなのだろうか?つまり生け贄とも言える。また、本来、神の領域であったところへの進入している代価は何が支払われているのだろうか。代価というより報酬(むくい的なものとしての)。wikiは簡単だけれど、じつは、難しい。まぁ、いつもの結論にたどりついたところで、意味はなく、終わる。 2008/10/07 00:03


2009年10月09日(Fri)

The Whole Earth Catalogのスチュアート・ブランドの『How Buildings Learn』をおすすめされてきた。

オンライン・コミュニティのパターンを探る ~ 時を超えた共創の原則 ~ - OVAL LINK Event blogへ行ってきた。いろんな好奇心のツボを押されまくってすごく良い刺激でした。レポートなどはまた後日、ゆっくり書きたいのだけれど、質疑応答のときに出たスチュアート・ブランドについていくつかbookmarkしておく。講演の内容もおもしろかったけれど、質疑応答もレベル高かったなぁ。(わたしもひとつ質問をしたけれど、先陣きっておいてよかった……)。質疑応答の3番目あたりにした方が、アレグザンダーに関連して、スチュアート・ブランドの『How Buildings Learn』をおすすめしていたのだけれど、やっぱり、アレグザンダーとカウンタカルチャのひとつの象徴である、The Whole Earth Catalogの創始者スチュアート・ブランドは関連がありそう。

じつはWikiばなで「カウンタカルチャからWikiWayへ」というタイトルにしてたとき、TWECについて触れようと思っていたのだけれど、資料が思うように集まらなくて頓挫していたのであった……。これも時間があったらきっちり図書館などで調べたい。って、TWECおいてある図書館てあるのかな。

1Q84の「リトルピープル」とWikiの小人さん

先の日記(というかテキストプレイ)の続・老子からWikiWayへ - shinoのときどき日記(2009-10-07)に、次のようなツッコミメールをもらいました。

ところで「小人さん」というのは1Q84のリトルピープルと類似の概念なんでしょうか?

うわわ、ごめんなさい。1Q84はまだ読んでないので、「リトルピープル」の概念を未確認です。機会があったら読んでみたいと思います。

ちなみに、Wikiの小人さんというのは、次のリンク先などで理解できるかな、と、思います。

追記。リトルピープルとWikiの小人さんはまったく異なる存在のようだ

まだ1Q84は読んでないのだけれど、教えてもらったところ、リトルピープルとWikiの小人さんはまったく異なる存在のようです。

単純にリトルピープル=小さい人、と、「小人」という言葉尻だけは似てるけれど、なんでも、リトルピープルはまがまがしい存在に見えるらしい!そんな!!><。 Wikiの小人さんは、とっても善い存在ですよ。

- Twitter / Nijimu Aotsuki: @freedomcat リトルピープルは、小人さんと ...

Tags: wiki

2009年10月11日(Sun)

パーマかけました。

トータルで6時間かけ、パーマかけました。髪の毛をずっと切らないでいたら腰にとどくくらいになってしまったので、これを何か遊んでみたいと、昨晩、思い立って、今日当日予約。

パーマは、直径1cmのロットでツイストかけながら巻いてもらって(それを100本以上)、パーマ液もかなりキツメにしてもらったので、今は、正直、アフロヘアに近い状況です。まぁ、少ししたら落ち着くでしょう。腰まであった髪を、5cmくらい切ってからまいたのですが、今は、肩にかかるくらいの長さなので、どれだけくりんくりんに巻いたか想像できるでしょうか。

Tags: 近況

2009年10月14日(Wed)

涙が出るくらい感動したスレ

"One more ポンポン?"のリフレインが止まりません。最後のオチ(というか投げっぱなし)が最高です。もう5回は読み返しています。

Tags: bookmark

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