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shinoのときどき日記

過去の日記

2010年02月04日(Thu) edit

バス共通カードが3月末日で買えなくなるのを知り、次の手段を考えた一日であった。

今日はちょっとtwitterの自分のTLを見直すと、非常に恥ずかしいのですが、ようやっとSuicaやPASMOなどの電子マネーの使い方を理解した一日でした。

きっかけは、関東圏内で使えるバス共通カードが廃止されるというニュースを知ったのですが、「えぇ?!それは不便な」と思い代替手段は何があるのかを調べはじめたところでした。

ていうか、Suicaでバスに乗れるなんて、知らなかった!

ていうか、Suicaがコンビニでチャージできるなんて、知らなかった!

ていうか、Suicaでバス共通カードと同じ割引がされるなんて、知らなかった!

どんだけ時代に取り残されているのよ、わたし……。と、ふと電車に2,3ヶ月に一度くらいしか乗らない生活をはじめてどのくらい月日が経ったのかを振り返ったら、十年ですよ。そりゃ、時代から取り残されるわけです。(自転車通勤時代3年+育児生活7年)。

わたしがSuicaの定期を持っていた十年くらい前は、まだSuicaって電車でしか使えないカードだったような記憶があります。それがいつのまに、こんなにサービス乗り入れしていたの?!

あぁ、いろいろ、びっくりしたー。浦島太郎の気分って、こんななのかしら。

えーと、twitterのTLをお目汚ししてしまい、すみませんでした。また情報を教えてくださったみなさま、ありがとうございました!

デジタルデバイドというよりも、ソーシャルデバイドを体感できた一日でした。これはちょっと新鮮だったなぁ。

追記

という、上記の話をSuica定期を持ってる主人にして、「で、ウェブでSuicaの履歴は見られるの?」と尋ねたら「それはできないと思うけれど、Suicaの履歴データを読み出せるデバイスは持ってる」とこれを持ち出してきた。

なんという、家庭内デバイドでしょう。

追記2

逆に言うと、Suica/PASMOで従来のバスカードのサービスの切り替えが完全に出来るようにリーダーやシステムの切り替えが首都圏の各バスに行き渡ったので、バスカードが廃止できるんですよね・・・

[Twitter / sync_syncより引用]

なるほどー。


2010年02月03日(Wed) edit

「読んでいない本について堂々と語る方法」を読みました。

読んでいない本について堂々と語る方法 読んでいない本について堂々と語る方法
ピエール・バイヤール/大浦 康介
筑摩書房
¥ 1,995

「読む」という行為をつきつめてゆくと、いったい何をもって「読んだ」と言えるのか、わからない。そして、「読んだ」という行為をつきつめてゆくと、自分の内で新たな再創造が起こっている。ということを大胆に語っているのが本書である。

この本はもうひとつの「時を超えた創造の原則」だと思った。「本は読書のたびに再創造され」、「自分の本を書く権利が自分たちある」(p.219)という指摘は、まるでWikiだ(と、わたしは思った)。

タイトルにも目次にもでてきていない、全体をつらぬくひとつのメタファがある。図書館と書物によってそれは語られているが、何のメタファかといえば、それは人間の創造性である。

以下、「全体の見晴らし」、「共有図書館」と「内なる図書館」そして「内なる書物」が再創造につらなる部分について本書から抜粋してみた。

  • 本を読まない司書は、本の細部に立ち入らないことにより、図書館の「全体の見晴らし」を得ている。(p.21)
    • 「全体の見晴らし」は図書館だけではなく、一冊の本の内部でも同じ。(p.28)
  • <共有図書館>。ひとつの本だけではなく、「ある時点で、ある文化の方向性を決定づけている一連の重要書の全体」(p.26)であり、この時「共有図書館を構成している諸要素間の関係の把握」が重要。
  • 内なる図書館。自分自身の内部に宿す<内なる図書館>があり、それは「会話の各瞬間において、他人の<内なる図書館>と関係をもつ」(p.96)
  • 内なる書物。「作品というより、ありとあらゆる会話や文章のなかを循環し、作品が不在のときにそれに取って代わる多数の情報の断片」(p.106)を<内なる書物>という。<内なる書物>は読解の仕方を方向付ける。
    • 「無意識の領野に属するこの想像上の書物は、新しいテクストの受容にさいしてフィルターの役割を果たし、テクストのどの要素を取り上げ、それをどのように解釈するかを決定する」(p.106)
    • <内なる書物>は、個人的な<内なる書物>と、集団的な<内なる書物>がある。どちらも「諸々の書物を受容するさいの受け皿となり、それらを再構成する働きをもつ」(p.109)

受容と再創造は同時に行われる。誰もが本を自由に創造する権利がある。

第八回Wikiばな、テーマを「Wikiと集合知」で開催します。

そういえば、こちらの日記に書くのを忘れて、すっかりあっちやこっちのダンドリに奔走していましたが、第八回Wikiばな「Wikiと集合知」を開催することにしました!

  • 開催概要
    • テーマ Wikiと集合知
    • 日にち 2010年3月22日(月・祝日)
    • 登壇者(予定) 塚本牧生さん、岡田良太郎さん、江渡浩一郎さん
    • 公式ページはこちら

開催までの経緯はこんな感じです。

という、流れで、今回のWikiばな開催が決定しました。

あまり公の場では書けませんが、日記なので書いてしまうと、要するに、今回のWikiばなは、「集合知?よくわからないけれど、みんなおもしろいこと考えているネ!みんなの話を聞かせてよ!」というオレオレイベントなのです。(ある意味、集合知の真逆?)

でも、こんな豪華な登壇者のお話を、shinoひとりでにやにやしながら横で聞いてたら、それこそ、みなさまに石を投げられる。ならば、みんなで聞きましょう!そうしましょう!

……そういう勢いだけで、ここまできています……。

今のところ、ダンドリだけ動かしていますが、どう考えても、当日のスタッフの人手、足りてません。もし、このテーマや、この豪華な登壇者に興味を持たれ、当日来場したいという方は、3/1以降にある来場者募集の申し込みを済ませてから、ぜひ、「スタッフやってもいいよ」と、WikiばなのMLにご連絡ください。(スタッフさんの募集は来場者募集開始以降にはじめます)。みなさまよろしくお願いします。

*1 これが一部で噂の「ちょっと体育館の裏に(ry」メソッドですね。

Wikiと集合知

上記の日記は、まぁ、文学的感情発露なのですが、ダンドリスト(主催)として、「Wikiと集合知」を取り上げようと思った動機を少しまじめに書きます。

まず、わたしが今追っているテーマは、どちらかというとまだ昨年の8月以来、老子からきて、カウンターカルチャー、そして、wikiという方向です。今、カウンターカルチャーのなかで、パーソナルコンピュータという思想がいったいどういうものであったのか、また、あるのか、というのを調べているところです。

その中で、先日書いた『パソコン創世「第三の神話」』にダグラス・エンゲルバートという人物が出てきて、この人物がいわゆるパーソナルコンピュータを作ったと言われるアラン・ケイよりも早くにパーソナルコンピュータの在り方を提議していたことを知りました。

エンゲルバートが提議しているコンピュータの在り方は、計算機能を担うものでも、人工知能のような人間の心や頭脳を代替するものでもなく、人間が利用者としてコンピュータを使うことにより人間自身の知性を拡大できるのではないかという可能性でした。そして、前者二つも、発達していますが、エンゲルバードの「知性拡大のためのツール」としてコンピュータも、ウェブによって相互に連携しあうことにより日々進化しているのではないかと思います。その進化形の、自然な形のシステムのひとつがwikiなのではないかなー、と、shinoは仮説を立てています。

そもそも、コンピュータはcom-pute(共に考える)という語源を持つ言葉だと言われています。wikiというのは「共に考える場(システム)」だと思います。一方、「共に考える」というのはさまざまな形態があるのでしょうが、集合知はその中のひとつのジャンルのような気がしています。(これは勘であって、確証は得られていません。集合知は諸説ありすぎて難しい)。だから、コンピュータやWikiを考える時に、集合知を考えることも必要なのかな、と、思いました。

これは個人的に、なのですが、今度のWikiばなで、そうしたshinoの仮説やら疑問やらが、自分の内部で訂正されたり、新たな知見が得られることを期待しています。


2010年02月02日(Tue) edit

『パソコン創世「第三の神話」』を読みました。

パソコン創世「第3の神話」―カウンターカルチャーが育んだ夢 パソコン創世「第3の神話」―カウンターカルチャーが育んだ夢
ジョン マルコフ/John Markoff/服部 桂
NTT出版
¥ 2,940

『パソコン創世「第三の神話」』を読んだ。先に『サイバービア』を読み、カウンターカルチャーから発生してきたネット文化やメディア論について学んだが、本書は『サイバービア』ではスチュアート・ブランドの陰となっていたダグラス・エンゲルバートにスポットをあてた本である。

「第三の神話」と名付けられた、その第三は何を意味しているか。それはコンピュータの三つ目の役割であり、カウンターカルチャーが目指したひとつの理想郷である。

本書では、エンゲルバートが描いたコンピュータのあり方を歴史とともに丁寧に描いている。当時、コンピュータには二つの役割が求められていた。一つ目は計算機・演算機能としてのコンピュータ、二つ目は人間の心や思考を代替する人工知能という役割。しかしエンゲルバードの理想とするコンピュータのあり方はその二つとはまったく違う方向だった。

エンゲルバートは、コンピュータに自分自身の人間の知性を拡大する役割を期待した。人間の代替ではなく、コンピュータを利用することで、利用者の知性を拡大しようという方向だ。それが、第三の役割である。

エンゲルバートは、「コンピュータはただ数字を処理するものではなく、計画作成や組織化、研究といった数学的でない対象を処理する能力を持っており「シンボル化した概念を使って思考する人には・・・・・・大いに役立つ」」と思考支援のメディアとしてコンピュータの可能性を予感した。(p.81)

今では、当たり前のように感じられる、そのようなエンゲルバートの思想は、当時はまだ実現されていず、その実現には西海岸に住んでいた様々な伝説的ハッカーが関わり、徐々に姿をあらわしてくる。その過程を詳細につづられたのが本書である。

カウンターカルチャーが隆盛だった当時、人々はドラッグにおぼれた。人々はドラッグの力を借りて、知性や認知の拡大を目指そうとした。これはカウンターカルチャーの大失態である。

本書のp.234(それは1969年あたり)で、カウンターカルチャーの代表的な作家であり、スチュアート・ブランドが絶大なる支持を寄せていたケン・キージーが、テキストを扱ったり、情報を検索するシステムのデモをみて、「これこそLSDの次に来るものだ」と感嘆したのは、カウンターカルチャーがドラッグで失敗した理想を、コンピュータがまだ実現可能だということを示唆しているだろう。

『サイバービア』では、ウェブのリアルタイムなコミュニケーション文化の中毒性は、ドラッグのような失敗を繰り返すのではないだろうか、というダークサイドの面が強調されていたが、本書により、エンゲルバードがそもそも目指した理想は「人間知性の拡大」であるという点であることを、もう一度思い出すことにより、パーソナルコンピュータというメディアはまだ可能性を持続した存在であると、希望を抱くことができる。


2010年01月30日(Sat) edit

第八回Wikiばな打ち合わせ

塚本さんと青月にじむさんと、第八回Wikiばなの打ち合わせをしました。場所はルノアール 新宿区役所横店です。(ここは以前、貸し会議室をWikiばなで利用したことがあります。が、立地はあまりよくありません。だから、30分ほど喫茶店難民と化して歩き回ったあげくに、最後に入ることができました。お店に入っちゃえば、あまり環境は気にしないですむのですが)。

もうちょっとふみふみして固めたら、Wikiばなのページに情報を掲載したり、MLに流したりしようと思います。(1~2週間くらいを見ています)。みなさまよろしくお願いします。

yomoyomoさん迎撃オフ

Wikiばなの打ち合わせ後は、新宿のスンガリーというロシア料理屋さんで、yomoyomoさん迎撃オフをしてきました。料理おいしかったです。焼きピロシキはヘルシーな感じでわたしは気に入りました。

先日、生活記録ノートのことを日記に書いたのを見てくれた、たつをさんにB6のノートをもらいました。ツイテル!(アナログなノート、大好きです。何に使おう。使い道を考えるとわくわくします)。ありがとうございます。


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