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shinoのときどき日記


2016年04月24日(Sun)

tDiary 15周年パーティーへ行く。

久しぶりにIT系のイベントへ参加して来ました。

まずは幹事のいがいがさん、スタッフをしてくださった青月にじむさん、ありがとうございました。特にいがいがさんが発案し、企画し、たださんに交渉しなければ今回のパーティーはなかったので、感謝です。にじむさんも安定のサポート力で、受付などのお働きのおかげで一番気を使う金銭出納が滞りなく行えたこと、感謝します。

そして、基調講演をしてこれから10年先のtDiaryの展望を示されたただただしさん、日頃、tDiaryのメンテナとして活躍され最近の開発について講演をしてくださったhsbtさん、まちゅさん、ありがとうございました。

また、会場提供のdots.様、素晴らしいロケーションで、設備もきれいで、いろいろと融通を利かせてくださり、(今回、少し無茶振りなことをしたのですが)、気持ちの良い応対で、ガイダンスをしてくださりありがとうございました。

たださんの講演は相変わらず発想が非凡で、10年後に日記を読んでるのは人工知能ではないか。人工知能が人間を理解するためにウェブ日記を読むであろう。その時により人間を理解してもらうために、

  • 1.日記を書き続けること
  • 2.日記は事実の記録に留まらず感情、エモーショナルが大切なこと

という、日記書きの姿勢を示されたのは、とても面白かったです。

人工知能が読者かどうかはちょっとわたしは最近の議論や新しい技術についていけてないのでわからないのですが、日記であるからには事実の記録だけではなく、感情も含めるのが大切だなぁ、と、改めて思いました。そして、毎回、たださんが日記を書き続けるというメッセージをされるのが本当、大切。

hsbtさん、まちゅさんは日記書きのではなくて、tDiary書きの立場から、最近の開発の話を具体例でわかりやすく話してくださって、改めて、わたし、思いっきり時代に追いついてないことがよ〜くわかりました。ま、こればっかりは仕方ない。

講演の後には素晴らしいケーキが登場し、いがいがさんが15本ものロウソクを点火して、ヴァイオリンの伴奏付きでみんなでハッピーバースデーを歌い、たださんが一生懸命、ロウソクを吹き消されてました。

そして、たださん、hsbtさん、まちゅさんによる、ケーキ入刀のふり(実際のケーキカットはにじむさんとわたしとで、別に行いました)。とても良い記念写真が撮れました。

人数はこじんまりとしてましたが、身内というものに固まらず、福岡や名古屋といった遠方からも駆けつけてくださった方がいたり、tDiaryとはまったく違う日記エンジン作者のいがぴょんさんがいらしてたり、とてもバラエティに富んだ面白い集まりでした。

わたしは大したことはしてなくて、ケーキカットのお手伝いくらいでしたが、あまり知られてない(だろう)ケーキカットのコツをここに記して、日記とします。

  • ケーキカットのために用意するのは次のもの
    • なるべく刃渡りの長い包丁(今回はラッキーにも、刃渡り36cmのケーキナイフを用意出来ました)
    • トング
    • 紙皿、人数分+1
    • フォーク 人数分
    • 切り図を書くための紙とペン
  • カット前にケーキ上に乗っている装飾果物(今回はイチゴやラズベリーなど)をすべて余分なお皿にトングで移す
  • 人数分に行き渡るよう切り図を作成(これ作らないで切りながら個数確認すると大きさに違いが出すぎたり失敗する)
  • 切り図にしたがってケーキナイフをケーキに入れる
  • 切ったケーキを皿にトングで一つずつ盛る
  • 移した果物などを各ケーキにトングで乗せる(だいたいこれくらいの人数でケーキを分けると発注の時にお店に伝えるとだいたいその個数分の果物を装飾してくれてるのです)
  • フォークを添えて各人にケーキ皿を回す

そんな感じで、とても楽しいパーティーでした。


2016年04月12日(Tue)

パウロの祈り

トルコにエフェソスという港町がある。現代では、トルコで一番大きな港湾都市であるイズミールに次ぐ、二番目に大きな港湾都市だそうだ。

わたしは、もう20年も前になるけれど、エフェソスを訪れたことがある。

そこには、ギリシャ風な神殿の遺跡などと一緒に、イエスの復活ののち、エルサレムから去ったイエスの母マリアが使徒ヨハネと晩年、生活したと言われる建物があった。つまり、異教の神々を祀る土地の片隅に、イエスの母マリアと使徒ヨハネは暮らし、初代教会の一つを組み上げたのだ。

使徒パウロは、当時、使徒ヨハネと主イエスの母が居たか、その霊的な痕跡の力強い土地へ、かつ、異教の神々に囲まれて霊的に困難な土地へ、万感の想いを込めて、手紙をしたためたのだろうと思うと、この手紙の霊的な力強い励ましの言葉が、すんなりと入ってくる。

この祈りはキリスト者の霊性の方向性を愛に定め、父なる神の栄光と富、聖霊の働きにより、イエス・キリストが心に住われることを基礎として、つまり、父子聖霊の三位一体の神との親しい交わりのなかで、キリスト者が愛に根ざし愛に基づいて生活することを願っている。

父子聖霊の親しい交わりのある、愛に根ざし愛に基づいた生活は、几帳面な、計算された、コントロールされうる規律や戒律ではなく、人知を超越したキリストの愛を感じ、体験し、満たされることに繋がるのだ。

そして、それは神の栄光がこの地であらわされることでもある。

新約聖書は、主なる神を愛し、自分を愛し、隣人を愛し、敵をも愛し、また特にイエスを信じる者同士が互いに愛しあうことを繰り返し奨励している。

その愛は、キリストのあの十字架の愛の実なのだ。イエス様を、十字架を無にしないで、その愛を結実させるために、パウロは強力な執り成しの祈りをしたためてくれたのだろう。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、 怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(第一コリント 13:4-7)。と、聖書に書いてある。自分をコントロールして、どうしても自力では愛の域にたどり着けない時に、パウロのこの愛に根ざした愛に基づいた生活への執り成しの祈りを静かに祈るのは、良いことのように思える。

こういうわけで、

わたしはひざをかがめて、

天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。

どうか父が、

その栄光の富にしたがい、

御霊により、

力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、

また、

信仰によって、

キリストがあなたがたの心のうちに住み、

あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、

すべての聖徒と共に、

その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、

また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、

神に満ちているもののすべてをもって、

あなたがたが満たされるように、

と祈る。

どうか、

わたしたちのうちに働く力によって、

わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、

はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、

教会により、

また、キリスト・イエスによって、

栄光が世々限りなくあるように、アァメン。

エペソ人への手紙‬ ‭3:14-21‬ ‭JA1955‬‬


2016年04月07日(Thu)

目からウロコ キリスト者同士の人間関係

今日はカトリックの来住英俊司祭の、人間関係の本を読みました。

教会というコミュニティからの離脱や停滞、そんな中でもし息苦しさや人間関係に躓きを覚えた時にどうすればいいか。

一般的にクリスチャンは祈りと愛を持って…祈りが足りないとか…愛を持って…相手をゆるして…という回答を見ますが、来住先生は「識別と選択」が大切だといいます。

識別と選択は、「識別の努力の結果、わたしはこれを選択しました」という関係で、自分の行動の意思決定、選択はその前に十分な吟味、識別があるということです。

識別は自分本意の尺度ではなく、聖書のいう「神の国」という視点が大切ですと説かれてました。

あと、識別の対象は「ある行動を実際に起こそうとする心の働き」で、悪いパターンと善いパターンがあると。

悪い心の働きは、周囲の人に同情や理解を求めたいとか、思わせぶりや気取りがあるとか、秘密にしたいとか、自己正当化が強いとか、妄想で被害者意識があるとかのようです。

善い心の働きは、一人で穏やか、率直になれる、人に知られても構わない、自分は正しいと自分に言い聞かせる必要がない、悪い方向へ想像が勝手に走らない、開けて解放感があるような感覚があるようです。

何か行動をしようとするとき、自分の心がどちらの状態にあるのかをよくよく内省し、「わたしの願いではなく、神の御心が行われますように」と祈り、この祈りは識別を助けてくださいという祈りであって、「わたしは選択しません」という意味ではないとバッサリ明記されてるように、思考停止にならないで、行動の選択をすることが大切なんですねぇ。

ただ、神様の御心と祈る時にテキストに書かれたような思考停止の他、律法主義に陥りそうな懸念がありますが、それは自己正当化が強いということになるので、そうではなくて、自分は正しいと言い聞かせせることなく率直になれるところまで徹底的になる、そのプロセスは人によって紆余曲折がありそうに思います。その紆余曲折の時間が識別の時間で、大切に思います。

最後に「善意を持って、精一杯の識別を行って、なお誤った判断をした者を、主が過酷に裁かれることはないと信じましょう。」とあり、そしてまた、精一杯の善意をもって識別しても、心の奥底で神様の視点からみたら「自分は大きな思い違いをしているかもしれない」という可能性を認めていることも大切だと書かれ、ここに謙遜が生まれるのだなと思いました。

目からウロコ キリスト者同士の人間関係
来住 英俊
女子パウロ会
¥ 864


2016年03月26日(Sat)

自制。……できなかった。

身近なところでトラブルがあって、これはもう個人ではどうしようもないし、数年がかりかなぁ、という感じで構えているのですが(すでに年単位で経過してます)、言葉にならない積もる気持ちはあって、気づいたら人を責める声を発してしまって、気づいたらもう声が出てしまった後で、頭真っ白(ここら辺、事情を具体的に書けなくてごめんなさい)。

折しも明日はイースター(復活祭)なのですが、去年、今年と深く十字架の道行きを味わわせてもらっているためか、声を出したあと、自分の中にある「イエスを十字架につけよ」と声を上げる群衆の要素に、がっくりきました。

問題を神様に委ねようと思っても思っても、なかなか手放すことが難しいと砕かれました。クリスチャンらしく愛、寛容、柔和、自制を身につけられてない自分に、そして、自力でそんな自分になろうと思う自分に二重三重にがっくりです。

でも、がっくりするのは自分に目を向けてるからですね。がっくりした自分を神様に差し出しましょう。

イエスさまは、そんなわたしの弱さのために自ら十字架にかかり、そして、死んで葬られたのですが、それだけではなくよみがえられたのです。

明日の復活祭は、ご復活のイエスさまの足元で礼拝するマグダラのマリアを黙想しながら、教会の礼拝へ行きましょう。そうすれば大丈夫。イエスさまに会えるから。

「すると、そこへ突然イエスがお姿を現わされ、目の前にお立ちになり、「おはよう」とあいさつなさいました。 二人はイエスの前にひれ伏し、御足を抱いて礼拝しました。」 マタイによる福音書‬ ‭28:9‬ ‭JLB‬‬

「たとい二、三人でも、わたしを信じる者同士が集まるなら、わたしはその人たちの真ん中にいるからです。」」 マタイによる福音書‬ ‭18:20‬ ‭JLB‬‬


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